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 維新ということ

 

 参院選挙を前に、少数政党の乱立に拍車がかかっている。世相は自称龍馬をもって任ずる人士が溢れている。そんな彼等のスローガンの一つが維新である。そもそも、この維新とは如何なるものなのか。

 言うまでもなく、この維新の出典は、中国の古典の詩経である。そして、その命維新とは、政治体制が一新されることだ。この意味で革命に通じる。しかし、革命というと共産主義に結びつくイメージがあり、一昔前の民族派たちは専ら維新という言葉を好んだ。昭和維新がいい例である。

 革命VS維新、それがそのまま左右の陣営を分けた時代は終わった。今日ではむしろ維新の原義に戻って、革命と結びつけて論じる視点が大切だ。そうすればそれは、維新といおうが革命とよぼうが、種々の矛盾が鬱積し、もうどうしょうもない状況において要請されるものであるのが明らかとなる。つまり危機の時代のものなのである。したがって、かかる非常時にあっては、通常の仕方では如何とも時代は打開できぬわけである。この意味で、維新あるいは革命は戦争に通じる。

 なまぬるい平和主義社が、革命の暴力に対して、言論のみで維新が実現できると考えるのは誤っている。明治維新も、尊王攘夷派のテロリズムと薩長の武力蜂起がなければ、起こりえなかったであろう。とすれば、維新の唱道者は危険思想の持ち主であり、時の為政者から睨まれて当然なのである。ときにそれは、自らの生命さえも奪われる覚悟なしには、唱えられるものではないのだ。現代の維新論者に、かかる覚悟がありや否や。

 詩経とともに儒教の聖典である易経は、革命について説いている。それは、そのまま維新に通じる。すなわち沢火革の文中に、革命、天に順い人に応ず、とあるのがそれだ。天則に従い民心を自らのものとする政治家は、私欲で動かず、小細工を弄しないように心がけねばならない。

(2010年5月)

 

 

 

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